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東京地方裁判所 昭和56年(ワ)11032号 判決

原告

相沢桂子

右訴訟代理人

川名照美

矢花公平

被告

清水ヒデ

右訴訟代理人

二関敏

主文

1  被告の原告に対する東京地方裁判所昭和五五年(ワ)第四一〇八号事件の和解調書の執行力ある正本にもとづく強制執行は、許さない。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  東京地方裁判所昭和五六年(モ)第一三三五三号事件の強制執行停止決定は、認可する。

4  前項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文第一、二項と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告の原告に対する債務名義として、次のものが存在する。

(一) (債務名義の種類)本件被告を原告とし、本件原告を被告とする東京地方裁判所昭和五五年(ワ)第四一〇八号事件の和解調書

(二) (債務名義の成立年月日)昭和五五年七月一七日

(三) (債務名義に掲げられた請求権の内容)別紙和解条項(以下、本件和解条項という。)記載のとおり。

2  被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の建物(以下、本件建物という。)につき、家屋明渡の強制執行を申立てた。被告の右明渡の強制執行は、原告が本件和解条項第四項に定める金員を支払期日までに支払わなかつたことを理由に、同第五項にもとづいて本件建物についての賃貸借契約は解除されたとして申立てられたものである。

3  本件建物についての賃貸借契約解除の効力は、未だ発生していない。

原告は、本件和解条項第四項記載の金員を支払期日である昭和五五年八月末日までに支払わなかつたが、支払が遅滞した事情は以下のとおりである。

原告は、本件和解条項第四項の金員を支払うべく、その支払期日前に金額確認のため郵送されてきた和解調書を開封したところ、同第二項但書として、「右賃料は各更新時において、更新時の賃料の一割相当額を増額するものとする。」と記載されていることを知つた。かかる事項を承諾した覚えのない原告は、驚いて、直ちに本件和解をした東京地方裁判所の担当部に連絡をとり、その結果、五、六日後に裁判官室において関係者の間で話し合いがなされた。その席上、被告訴訟代理人弁護士二関敏から「原告の賃料額と同額の他の貸室の賃料が増額されたときは、その額に合わせて原告の賃料額も増額する。」との提案がなされたが、原告は、これを了承せず、右会合は終了した。原告は、その後、再考し、右提案を受諾する決心をし、同裁判所の書記官宛に、前記提案を受諾する旨及び関係者への連絡等の手配を懇請する旨記載した葉書を郵送した。原告は、右葉書に対する裁判所からの連絡があるものと信じて待機していた(ところが、担当書記官は、最早、事件は裁判所の手を離れているとして、二関弁護士にも原告にもその後の連絡はしなかつた。)。そうするうちに、支払期日が到来し、原告は、現金の用意をしたものの、和解条項に関する右疑義が未だ正式に解決していなかつたため、支払を留保した。すると、昭和五五年一〇月初旬、執行官が原告宅に差押にきたので、(被告が原告に対し強制執行の手続をとつた。)、原告は、執行官に事情を説明し、その後、二関弁護士に対し本件和解条項第四項の金員を支払うので話をつけてほしい旨懇請し、同年一〇月三〇日、右金員を支払つた。

なお、原告は、昭和五五年八月分以降の賃料についても、現在までこれを支払つている。

原告が本件和解条項第四項の金員を支払期日を徒過して支払つた事情は、前記のとおりであるが、その理由、原告の対応、催告のなかつたことからすれば、本件賃貸借契約における信頼関係を破壊するとはいえない特段の事情があるというべきであるから、契約解除の効力は不発生である。

4  本件和解は、要素の錯誤があるから無効である。

本件和解条項第二項には、前記3のとおりの但書が付されているが、原告は、右但書記載の事項を了承したことはない。原告は、同第二項本文にある四万六五〇〇円の賃料額を合意するにあたり、従前の賃料額を一割程度増額することによつて従前の賃貸借契約を更新するということを聞き本件和解をなしたものである。したがつて、右但書は、原告が了承した昭和五四年六月一日時点の更新条件に関する原告の発言ないし了承を、将来の更新に関する発言ないし了承ととりちがえ、あるいは拡大して解釈したうえで、付加されたものなのである。

賃料額の将来にわたる合意は、賃貸借契約のような継続的法律関係においては、本質的事項であるから、かかる事項に関する錯誤は、要素に錯誤があるというべきである。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3の事実のうち、原告が支払期日までに本件和解条項第四項記載の金員を支払わなかつたこと、同第二項に原告主張の但書が存在すること、和解成立後、裁判官室において被告訴訟代理人弁護士二関敏が原告と面談したこと、その席上、同弁護士が譲歩案を提示したが原告は了承せず右会合は終了したこと、その後、原告は右提案を受諾する旨の葉書を裁判所に郵送したが、同裁判所は同弁護士に連絡をしなかつたこと及び原告主張の頃被告が強制執行の手続をとつたことは認めるが、その余の事実は否認する。

3  同4の事実は否認する。

4  本件和解成立の経緯は次のとおりである。

被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の建物(本件建物)を賃貸していたが、原告が昭和五四年六月から同年一二月までの賃料を支払わなかつたので、東京地方裁判所に右建物の明渡請求訴訟を提起した。右訴訟において、裁判官は、和解を勧告し、本件和解条項を作成して、これを当事者に読み聞かせ、かつ、その内容を説明し、当事者双方は、これを異議なく了承して本件和解が成立した。本件和解条項第二項但書の文言中、最初「但し、右賃料は更新時において更新時の賃料の一割相当額を増額するものとする。」として、同第二項但書にあるような「各更新時」の「各」がなかつたのであるが、裁判官において、右条項を読みかえした後、誤解の生じないよう「各」を入れましようねと当事者双方に念を押して了解をさせた結果、同第二項但書ができたものである。

そもそも本件当事者間の訴訟は、昭和五四年六月の更新時における増額賃料問題が、その発端であつたから、前記和解の話合いについては、将来の紛争の再発を回避するため、更新時の増額賃料問題をまず重点的にとりあげて話し合いを進め、これが合意に達したので、(本件和解条項第二項但書のとおり)、賃貸人たる被告は明渡し請求を譲歩し、引続き賃貸することを承諾したのである。

原告は、本件和解条項第二項の但書については承諾した覚えはないと主張するが、これは全く真実に反することである。原告は、本件和解成立後、第三者と相談し、その結果、心境の変化を来たして、本件和解条項を変更しようと企図しているのである。

三  抗弁

本件和解においては、その席上、紛争解決の前提として、将来の更新時の増額賃料のことが、関心の対象となり、この点について十分の話合いをすると共に、その他の条項に定めた事項についても十分話合いをし、前記二4のとおりの経緯で和解が成立したものであるから、仮に、本件和解が原告の錯誤にもとづくものであるとしても、原告には重大なる過失があり、その無効を主張し得ないものである。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1、2の事実は、当事者間に争いがない。

二原告が支払期日である昭和五五年八月末日までに本件和解条項第四項記載の金員六九万七五〇〇円を支払わなかつたことは、当事者間に争いがないので、右不払を理由とする同和解条項第五項にもとづく本件建物についての賃貸借契約解除の当否について、以下検討することとする。

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

1  原告は、被告から本件建物を賃借していたが、昭和五四年六月の契約更新の際、原、被告間で賃料増額問題につき話合いがつかず、原告が同年六月以降の賃料を支払わなかつたので、被告は、原告を相手方として東京地方裁判所に貸室明渡請求訴訟(同庁昭和五五年(ワ)第四一〇八号)を提起した。なお、右訴訟において、被告は、訴訟代理人として弁護士二関敏を選任したが、原告は、弁護士を選任しなかつた。

2  右訴訟において、担当裁判官は、昭和五五年七月一七日、当事者双方(原告本人及び被告代理人弁護士二関敏が出頭)に対し、和解を勧告し、裁判官において、別紙和解条項記載のとおりの和解条項を読みあげ、当事者双方は、これを了承して、同日和解が成立した。

3  本件和解調書の送付を受け、これを読んだ原告は、本件和解条項第二項但書に「但し、右賃料は各更新時において、更新時の賃料の一割相当額を増額するものとする。」とある部分は、将来の各更新時における賃料増額についてまで決めているものであるから納得できないとして、昭和五五年八月末に裁判所に対し、「賃料の更新時増額は景気情勢に添つたうえでの家主と借主との話合いの形にさせていただきたい。」等との旨記載した書面を郵送し、被告に対しては、金の用意はしてあつたが、支払期日に本件和解条項第四項記載の金員の支払をしなかつた。

4  原告より前記の如き書面を受け取つた裁判所(本件和解を成立させた裁判所。以下、同じ。)は、一週間位後に被告代理人二関敏及び原告本人を呼出して話合いの機会を設け、その席上、右二関弁護士から本件和解条項第二項但書を「但し、右賃料は各更新時において、更新時の賃料の一割相当額を増額するものとし、この場合同じく清水マンションの賃借人の最低増額率が、一割以下の場合はこれと同率とする。」との旨改める譲歩案の提示があつたが、原告がこれを了承しなかつたので、話合いは物別れとなり終了した。

5  その後、原告は、再考した結果、二関弁護士の前記譲歩案を受け入れることとし、その旨記載した葉書を昭和五五年一〇月一日裁判所宛に出したが、同裁判所は、最早、事件は裁判所の手を離れているとして、二関弁護士にも原告にもその後の連絡を一切しなかつた。

6  原告が本件和解条項第四項記載の金員の支払を支払期日以後もなさなかつたので、被告は、昭和五五年一〇月初旬頃、原告に対して、強制執行に着手し、執行官が原告宅へ差押に赴いた。ところで、二関弁護士の前記譲歩案を受諾した旨裁判所宛に連絡したことで安心していた原告は、突然差押を受けたことで驚き、直ちに、裁判所及び二関弁護士へ善処方を申入れたが、本件和解につき、最早、手直しをする余地がないことを知り、昭和五五年一一月一日と同月一三日の二回にわたり、本件和解条項第四項の金員六九万七五〇〇円と同年八、九月分の賃料九万三〇〇〇円を被告代理人の二関弁護士に支払つた。

右事実が認められ、右認定に反する証拠はない(なお、右事実のうち、昭和五五年七月一七日本件和解が成立したこと、原告が支払期日に本件和解条項第四項記載の金員の支払をしなかつたこと、和解成立後、二関弁護士と原告が裁判所において話合いをし、その席上、同弁護士から譲歩案の提示があつたが、原告が了承せず話合いは終了したこと、その後、原告は右提案を受諾する旨の葉書を裁判所宛出したが、同裁判所は二関弁護士に連絡をしなかつたこと及び昭和五五年一〇月初旬被告が原告に対して強制執行の手続をとつたことは、当事者間に争いがない。)。

ところで、建物の賃貸借の当事者は、「建物ノ借賃カ土地若ハ建物ニ対スル租税其ノ他ノ負担ノ増減ニ因リ、土地若ハ建物ノ価格ノ昂低ニ因リ又ハ比隣ノ建物ノ借賃ニ比較シテ不相当ナルニ至リタルトキハ契約ノ条件ニ拘ラス将来ニ向テ借賃ノ増減ヲ請求スルコト」ができるものであり(借家法七条一項)、その増減額は、増減請求をする時点における右条項に規定する如き諸事情を勘案して、その都度決せられるべきものであるから、長い将来にわたつて契約更新時毎にある一定額ないし一定率で自動的に増額していく旨の契約は、借家法の右規定ならびに同法の精神に反するものであるといわざるを得ない。

したがつて、仮に、被告が主張する如く、本件和解成立の際、本件和解条項につき、同第二項但書を含めて原告がすべて異議なく了解していたとしても、そして、和解成立後、原告において、第三者と相談した結果、心境の恋化を来たし、本件和解条項第二項但書の変更を企図したとしても、前述したところから明らかなとおり、本件和解条項第二項但書の如く、将来の各更新時における増額を本件和解成立の時点において決めてしまうことは、借家法上問題があるものといわざるを得ないから、法律専門家でない素人の原告が、和解成立後、この点に疑義を感じ、その是正を求めようとして、裁判所へその旨を記載した書面を出したうえで、話合いができるまでの間、和解で決まつた金員の支払を一時留保したとしても、あながち非難すべきものとは思われない。

かかる点と前記認定の事実関係を勘案すれば、原告が本件和解条項第四項記載の金員を支払期日までに支払わなかつたとしても、背信性のあるものと断ずることはできず、却つて、本件建物の賃貸借契約における信頼関係を破壊するとはいえない特段の事情があるというべきである。しかして、右不払を理由とする本件和解条項第五項にもとづく本件建物についての賃貸借契約の解除は、その効力がないと解するのが相当である。

三以上検討してきたところによれば、被告の原告に対する東京地方裁判所昭和五五年(ワ)第四一〇八号事件の和解調書の執行力ある正本にもとづく強制執行は、未だ本件和解条項第五項の要件を具備していないので、許されないというべきである。

よつて、訴訟費用の負担について民訴法八九条を、強制執行停止決定の認可及びその仮執行宣言につき民事執行法三七条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。 (中田昭孝)

和解条項

一 原告清水ヒデ(本件被告である。以下、同じ。)は、被告相沢桂子(本件原告である。以下、同じ。)に対し、別紙物件目録記載の建物(以下、本件建物という。)を昭和五六年五月一五日まで引続き賃貸する。

二 右賃貸借契約の賃料は、昭和五四年六月一日以降一ヶ月金四万六五〇〇円(共益費一ヶ月一五〇〇円を含む)に改定することに原告と被告は合意し、被告は原告に対し、毎月末日限り当月分を原告方に持参又は送金して支払う。

但し、右賃料は各更新時において、更新時の賃料の一割相当額を増額するものとする。

三 右賃貸借契約更新の場合は、被告は原告に対し、更新時の賃料一ヶ月相当分の金員を更新料として、原告方に持参又は送金して支払う。

四 被告は原告に対し、昭和五四年六月一日から昭和五五年七月末日までの延滞賃料および賃料合計金六五万一〇〇〇円(一四ヶ月分)および更新料金四万六五〇〇円の支払義務があることを認め、右金員を昭和五五年八月末日限り原告訴訟代理人弁護士二関敏(東京都新宿区市ヶ谷田町三―二一)宛持参又は送金して支払う。

五 被告が原告に対し、第四項に定めた延滞賃料および更新料を期限までに支払わなかつたとき、又は第二項に定めた賃料の支払いを怠り、その額が三ヶ月相当分以上に達したときは、何らの通知催告を要せず当然本件賃貸借契約は解除となり、被告は原告に対し、直ちに本件建物を明渡す。

六 当事者双方は本和解条項に定めるものの外何らの債権債務のないことを相互に確認する。

七 訴訟費用は各自の負担とする。

物件目録〈省略〉

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